こんにちは。2025年1月8日19:00から
「奇跡体験!アンビリバボー」が放送されます。
今回は新年最初ということで特別企画
「新春!!一攫千金&今年こそ夢叶えちゃうぞSP!」です。
まさに奇跡のような夢みたいな劇的人生の変化を起こした人達の特集です。
劇的変化にも様々な物がありその中の一つに選ばれたのが
「アキヒロ・アイク・イクハラ」さん。
「え?誰?」「聞いたことない」と思われる方も多いかもしれません。
しかし、今やだれもが知る選手である「大谷翔平」さんの
入団会見の際に挙げられた野茂英雄さん達「ビッグネーム」の中の一人なのです。
あの大谷翔平選手の入団会見のような重要な場で名を挙げられるほどの
「アキヒロ・アイク・イクハラ」さんとはいったいどんな人なのか?
どのような道のりでそのような状態にまで達したのか?気になりし食べてみましたので一緒に見ていきましょう。
1. アキヒロ・アイク・イクハラさんのプロフィールや主な功績は?
あの大谷翔平選手の入団会見のような重要な場で名を挙げられるほどの
「アキヒロ・アイク・イクハラ」さん。まずはそのプロフィールや
どのような功績を残した凄い人なのか見てみましょう。
調べれば調べるほどスゴイ内容、ドジャースにとどまらず日米野球への貢献が明らかに・・・
プロフィール
名前 :アキヒロ・アイク・イクハラ
本名 : 生原昭宏(いくはら あきひろ)
出身 :福岡県出身
学校 :早稲田大学
福岡県立田川高校
実績 :亜細亜大学野球部監督(1961年~)
渡米:1965年
ご家族:妻:生原喜美子(作家)
息子二人
一人:医師か医療関係者
二人目:ドジャースの球団スタッフ
孫:興梠サラ(こおろぎさら)
生まれ:1996年10月21日
「世界にギブバックするため、サーフィンをもっとメジャーに」サーファー興梠サラが「MSGM」をまとう 「ユニコーン・アスリート」Vol.1 https://t.co/ygFWpseaj4 pic.twitter.com/KKiGeENg2f
— ハイデュードヴィンテージ (@HiD_vin) January 26, 2022
サラさんは、サーフィンとビジネスを通じて日本とアメリカの懸け橋になりたいと語っています。
まず、お名前からして凄いですよね。
アキヒロ・アイク・イクハラという名前です。
その名前から日系人と誤解されがちですがが生粋の日本人です。
驚くのはその名前の由来。
「いくはら」の姓とアイゼンハワー元大統領の愛称に因み
「アイク」と呼ばれて多くの野球人に慕われました。
一般の日本人に大統領の愛称をくっつけた名前でしたしまれるとは
どれほどアメリカに溶け込んでいたかを象徴するものですね
ご家族も著名な方ばかり。
作家の奥様に東日本大震災の際に駆け付けた医療関係者に
球団スタッフ。そしてお孫さんはサーファーでオリンピックを目指してる方。
アキヒロさんの人間的魅力がご家族にも引き継がれているということでしょうか。
2.アキヒロ・アイク・イクハラさんの主な功績は?
アキヒロ・アイク・イクハラさんの功績がスゴイ。
主な功績は以下の通りです。
・日本プロ野球チームのアメリカでのキャンプ実現
・日米大学野球開催
・中国・ソビエト連邦など野球の国際的普及
・日本プロ野球からの野球留学生の面倒を見る
・野球のオリンピック正式競技採用に貢献
日本とかアメリカとかの国の枠を超えた貢献とは
まさにこのことなのでは?と思います。
現在でも、日本からアメリカ大リーグに入団すると非常に注目されますが
その数十年前、日本人の先駆者としての道を切り開いた方。
今みたいに日本人の数が増えてきた状態であれば、
アメリカに渡った際も頼れる人がそれなりの人数が居て安心できそうですが
アキヒロ・アイク・イクハラさんが渡米したのは1965年、今から約60年も前の話。1945年の終戦からまだ20年しか経ってないアメリカで日本人の扱いは今とは比較にならないくらいだったのでは?と想像されます。今の環境でもアメリカで認められるにはかなりの努力が必要と思いますが1965年当時は今よりもさらに厳しいものがあったと思われる中での前述のような信頼を勝ち取ることは想像を絶するほどの努力をされたのだろうと想像に難くないですよね
3.アキヒロ・アイク・イクハラさんの功績達成への道のりがアンビリバボー?
アキヒロ・アイク・イクハラさんが先述の功績達成出来た背景には
ドジャース軍のオーナーだったオマリー家と固い信頼関係を築いたことにあるようです。信頼関係構築が重要ということが分かっててもそれを達成することが非常に難しいですし、しかも相手がドジャース軍のオーナーとなれば、まず自分の存在を知ってもらう・関わりを持つことすら難しいところからのスタートでしょうから、その難しさは想像を絶するかと思います。
アキヒロ・アイク・イクハラさんの渡米前は早稲田大学、社会人チームで野球選手として活躍、
亜細亜大学の監督としても実績を残しますが、
野球を探求するため、故・鈴木惣太郎氏(当時の巨人軍顧問)の紹介で
1965年渡米したそうです。
現在の巨人の顧問の紹介ともなれば、それなりの扱いを受けることもできるかもしれませんが
1965年に渡米した当時のアキヒロ・アイク・イクハラさんのアメリカでの
仕事始めはロサンゼルス・ドジャース当時球団オーナーの
ウォルター・オマリーの息子ピーター・オマリーの下、
無給のインターンとしてクラブハウス係として働くことから
彼のアメリカでの野球人生は始まりました。
英語もまだ十分に話せず雑用ばかりの日々。
毎朝4時半から深夜まで猛烈に働いたそうです。
睡眠時間ほとんどないですよね。この当時ご結婚なされてたと思われますがご家族との時間もないでしょうし、まさに粉骨砕身の貢献ですね。
アイクさんは「日本人である自分が実力社会の米国でやっていくためには、
球団にほかの人間より役に立つと思われなければダメなんだ」と語り、
その勤務スタイルを続けていた。やがてピーター・オマリーがドジャースの副社長に就任すると、
アイクさんもそれに従ってドジャースのフロントで働くようになる。
が、猛烈な仕事ぶりは変わらず、そんな熱心で誠実な貢献が認められ、
ピーターの秘書、さらにオーナー補佐・国際担当の要職に就き、
“野球の国際化”のため世界中を飛び回った。
言葉は充分通じずとも、周囲の信頼を得るためにひたすらその気持ちを示し続ける
それもも生半可な長時間でなく体現し続ける。
そんな姿に心を打たれるのは国や人種の壁をも超えるのでしょうね。
そのような気持ちが通じ、先述の功績になり、日米い野球の橋渡しになると共に
個人的にも、名前に大統領の愛称がついたり、
オマリー家代々の墓の隣で生原さんの墓がありそこで眠っていることにつながるのでしょうね。
4. 山本昌さんの米国へ野球留学、エースへの成長にも貢献?
アイク生原氏は65年に渡米。ド軍の元オーナーだったピーター・オマリー氏を支え、88年には中日のベロビーチキャンプを実現しました。その当時の中日監督が星野氏でした。星野氏は当時若手だった山本昌さんを米国へ野球留学させ、左腕はアイク生原氏からスクリューを習得。その勝負球で帰国後にエースとして成長したのは語り草となっているそうです。
「(アイク生原氏は)星野さんに憧れてました。男が男にほれる感じでした。(山本昌は)アイクの集大成。星野さんがアイクの努力を日の当たる場所に出してくださった」と感謝の言葉を並べた
(アイク生原氏が)その指導を命がけでして、彼(山本昌)がそれにこたえてくれた。そのあたりの喜びというのはすごいですよね。私まで喜んでいます。(山本昌が)真剣にアイクの指導法を受け入れて、そしていい投手として成長していったというのはアイクの集大成ですよね。野球の集大成。そう思っています。
「星野さんには憧れていました。長嶋さんとはまた別の感じではあっても、野球人としての憧れはすごかったと思いますよ。格好良くてね。男が男に惚れるまさにそういう感じでした。まさにプロ中のプロでしたね。山本昌さんの関しても、あの頃はコンピューターもないから、ファックスで日ごと日ごとその成績を送ってましたよ。(星野氏の)扶沙子夫人がみんな受け取って返事をまた書いて。ものすごい数ありましたよ。だから星野さんとは山本昌さんを指導するにあたり、いろんなことで交流してましたよ」
そして山本昌さんご本人もこの時のことを以下のように述べています。
あの時にアメリカへ行かなければ、そしてアイクさんに出会わなければ、その後の投手人生はありません。あの屈辱、焦燥、孤独を抱きながら、アイクさんの教えに食らいつき、投げた時間が僕の土台を作っています。」
今回のアイクさんの事を調べるうちに、こんな風に言ってもらえる貢献をしたいと心から思いましたね
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